毒を喰らわば
前置きとして。私は特定の宗教を信仰していません。神話は好きだし、学問として宗教は好きで。美術も好きだから必然的にキリスト教には詳しいし、もしも特定の宗教を信仰しないといけなるなったら、詳しいしという理由でキリスト教に改宗するかもしれませんが。
自由と信仰って似ています。自由という魅力的なのに実態がなく、けれども希望や願望を押し込められる崇高で危うい言葉です。みんな今、自由に飢えているようですが。人って不便なもので、自由に何でも良いと言われると、何も選べないのです。
選択する練習と同じように、自分で自由の範囲を決めないといけません。例えばタイムリーに外出について考えてみましょう。
今は越境して自由に外出出来ませんが、制限解除されれば旅行に行けるようになります。それは自由でしょうか。自由に行き来できる、とも表現出来ますが。制限というルールに縛られなければ、自由に行き来だって出来なくはなかったはずです。
よく意味を考えて使っていないと思うのですが、自由というのは「集団におけるルールの改正」なんですね。それが自分の行動や日常、思想に合わないと制限で。新しいルールが自分に有利なら自由なんです。
私の言っている意味が分からない人も多いでしょうが。時代錯誤な例を挙げると。男女雇用機会均等法が施行される前は、女性は総合職につけず一般職にしか就労できませんでした。いくら資格や能力があって、やりたい仕事でも門前払いだったのです。今は「こんな仕事をしたい」、と考える機会も多いので想像が難しいかもしれませんが。特になりたい職業もなく、それなりに生活できる給料が貰えれば良い人にしてみれば、少ない選択肢、もっと言うなら決められた仕事をについて。リストラもなく、一定の年齢になると周りがバタバタ動き回って人生のパートナーを斡旋してくる。そんな選択するだけの生活が合っていた、合うように刷り込みされていた人には、転職は当たり前、仕事は自分で好きに決められる、フリーランスも珍しくない社会はアレルギーを起こすかもしれません。
集団のルールを変えるには、じわじわと。気づいたら花が咲いて、林檎の実がなっている。そんな変化を知られないように、社会集団に浸透させなければいけません。急に秋入学にするというような、やっと「選択肢を選び抜いて、その選択肢から自分に合うものを決める」という自由を得始めた私達は温度差で火傷をしてしまいそうです。まだぬるい水に使っていたい人と、熱々厳選かけ流しを待っている人との間は広く、その間を取り持ち連絡する機能がまだまだ揃っていないようです。
これが海外に行くなど見知らぬ土地のことなら、郷に入っては郷に従えと右倣えもできたんでしょうが。
今起ころうとしている自由は、あなたの興味や思考に合っているでしょうか?自分の興味、思考を変えたほうが新しい自由を楽しめる可能性があります。折角ですが、染まったフリでも良いので楽しむことをおすすめします。果物は周りが熟していると、すぐに熟れるんだそうです。
はめても合わないピース
私の知っている最高難易度のジグソーパズルは、1000や10万ピースという巨大なものではなくて。真っ白のピースだけで構成された、完成しても白一色が組み上がるジグソーパズルです。印刷された図もなく、ドウヤッテ完成させるんでしょうか。パズルの得意な人には、ピースを見ただけで隣にどのピースを置けばいいのか分かる人がいるそうです。サヴァン症候群の人にも、そういった空間認識能力といいますか、形を見ることに特化した方がいるという記事も読んだことがあります。
さて、私は形を見ることも空間認識能力も優れているわけではありません。今ある(知っている)情報から、どんな結果が生まれるかを考えるのが好きです。キッチンにジャガイモ、人参、白滝があれば肉じゃがを作るんじゃないか?と推理するのと同じです。パズルは必ずしも完成させなくて良いし、置く場所を間違えたなら別の正しそうな所に置いて絵柄が揃うのか試すだけです。頭の中で想像するぶんには、時間と自分のあえて言うなら血糖値くらいしか消費しません。それでも人は、どういうわけか、間違った推理をすることが怖いと思っているようです。自分の頭の中だけで、他の誰も知らないのに。ひっそりと答え合わせをして喜んだり、添削すればいいだけなのに。それとも、もしかしたら……を考えること自体、珍しいのでしょうか。
逃さない
追いかける人は、追われる人と同じくらい束縛されていますよね。片方がその状態になるなら、維持しないと難しいです。当人同士が直接しなくても、誰かにお願いすれば可能です。
この束縛の一番身近なものは、雇用でしょうか。社員を管理しますが、代わりに会社の中を社員はかき混ぜられます。よく労働の対価に賃金と考えがちですが、それは見たかの1つです。仕事として管理者には業務の改善も求められますが、時間と頭脳や肉体を酷使する代わりに、もっと自分に合うやり方に変える権利も発生します。仕事から逃げられないと同時に、会社への不満を主張して聞いてもらえる権利もあるはずです。
自粛が解除されたら、毎日同じ時間に出社せず半分は家で、無意味な会議も減らす。これが実際にここ2ヶ月できたんだから、良い部分は継続出来ますよね。
その好きを、もっと教えて
イラストはタイトルと関係なく、私の好きなカチッとした服装のお姉さんです。
さて、では本日のタイトルにちなんだお話を。
よく、好きを伸ばせといいますが。世の中は好きの迷子らしいんです。私が中高の頃って、深夜アニメ氾濫機とでもいいましょうか。毎日3本、それこそ2時間くらいアニメを見ないと消化できないくらい作品が多く放送されていました。自分の好みで厳選してその本数だったわけで、実際に放送されていた作品はもっとありました。よく録画して後で見れば良いという話もありますが、録画していることに安心して見ないケースもあります。翌週までやきもきするのが嫌だから、まとめて見たいという目的なら良いんですが。つまり好きの具体化をしないと、だらーっと見ることになるし。お気に入り候補からではなく、放送日の早いものから「見たい!」という意志のないまま、ただ角膜に映像を透過する作業になってしまいます。
なんでその映画が好きなのか。俳優さん?脚本?舞台設定?幼馴染というストライクな人間関係?。何が見たいという動機になるのか、考えて選んで、観る映画を決めていますか?
親しい人には、ただ一言「好き」といえば通じそうですが。どこが好きなのか、もっと輪郭を掘り出したほうが、次の好きに繋がると思うんです。好きのカテゴリに入れて楽しむだけで、もちろん十分な満足と楽しさを得られるのでしょうが。私は自分の世界に、厳選した好きを埋め込んで、自分を形づくり育てたいんです。
あなたの好きを吟味して再度味わうことは、少しだけ大切なことだと思っていただけたらな。