世界を言葉で繋いだら

毎日にイラストを添えて

読書【暇と退屈の倫理学】

 今日は読書感想です。はてなのアマゾンページを貼れる機能が作動しないので、もしかしたら表紙が見えないかもしれません。

 好きなプロダクトデザイナーの方がお勧めしていたから読んだんですが、私には少し合わなかった。

 読むのがオススメな人は、

  • 在宅などで家にいる時間に暇を感じている
  • 仕事中に暇だなって思うことが多い
  • パスカルとかハイデッガーが気になるけど読みづらそう
  • 消費と浪費って何が違っているのか具体例が知りたい

 といったところでしょうか。
 少し本書の主張を否定することになるんですが、ここで取り上げてれている「暇」と「退屈」の定義が私と違っていて。なのでページを使って説明されている理由が腑に落ちませんでした。好きなハイデッガーの著書を取り扱っていて、具体例を解説付きで本文中で説明しているので。これに目を通してから読むと、唸るタイミングは減るかもしれません。

 それでは感想を。

  本書では暇を余暇とも取れるように説明していくくだりがあります。確かに「暇」と「退屈」は混同され気味で、明確に使い分けていることは日常ありません。私の中では使い分けをされていて。

 暇というのは、意識か肉体のどちらか、または両方に思考を使わない状態です。例えば仕事で慣れたルーティンの単純作業は、何か意識的な注意を払わなくてもミスなくできて。でも手を動かすことは必要だから、意識だけがまちぼうけをしている状態です。あとは課題などがあって、制限時間よりも早く終わって誤字チェックなど時間を持て余していることです。

 では退屈を私がどう使っているのかというと。9割9分の確率で予測される未来が訪れる状態です。電車が時刻表通りに駅のホームに入るのは退屈ではありません。仮に私が営業部で、マーケティング戦略が予測通りに当たり、上手くいくときも違います。想像を1ミリでもはみ出さない状態と言えばいいんでしょうか。

 本書の中で暇になって、やむを得ず自分と向き合うことで能力が発揮されるといった旨の話がありますが。その要因が変化を嫌うことに起因しているというのです。ここはほぼ同意できるんですが、変化を嫌いすぎる。つまり良い意味でも悪い意味でも、ストレスのない状態というのは人を飽きさせ、それこそ暇になる。暇を嫌う性質が何度も説明されているので、はて、となります。

 人間の三大欲求は、睡眠、食欲、退屈の打破ではないかという論文を見かけたことがあります。出典を覚えていないので眉唾ですが、納得できる3つです。人はほどよいストレスを与えると脳が活性化します。難しすぎる勉強は疲れるけど、簡単すぎるのもダメって話は耳にしたこともあるんじゃないでしょうか。誰もが今よりもっと、と何か能力を高めたいわけではありませんが。本書にあるよう時間は人の認識の誤作動で、空間の連続した状態だとするならば、区切りのある事件が必要です。その事件とは内面の変化でも可能ですが、多くの変化は外的刺激によってもたらされると思います。つまり変化のない状態を望むというか、個々の平穏な状態を維持する作業が退屈をつぶす作業になります。平穏な状態というのは、その条件が変化していくはずです。睡眠時間、食べ物の必要量などは集団にいなくても個々人で年齢とともに変化していくはずです。

 また本書では問題提起されたまま、特に説明なく過ぎていった疎外という言葉。私は疎外は人が集団にいれば常に内包している問題で、けっして負の側面だけではないと考えています。疎外、かいつまんで簡単な言葉にすると「自分と他人の違い」です。人は自分のことを自分だと認識することをアイデンティティ、自己同一性といいます。自分一人で暮らしているなら、自分以外の何物でもなり得ないので考える必要のないことですが。人は集団に所属しているとき、同じまたは似た認識があると安心します。言葉が通じる、好きな色が同じといった具合に。ところが似たところが多すぎて、自分と他人の境界線が曖昧になったら、自己同一性は保てない気がします。極端な例ですけど、自分が返送の達人で毎日いつでも何度でも好きな容姿になれるとします。今日はあの芸能人、明日はハリウッドスター、あさっては雑誌のモデルさんのような具合に、簡単になんの苦労もなく変身できるとして。もちろん自分の行動の癖のような、どうしても変えられないものはあるでしょうが。自分という存在は他人との比較によって特徴が明確化され、個性キャラクターになっていると私は考えています。つまり他人との違いを恐れて疎外をなくしていった先には究極、ヒトはいるけど人間はいない状態になるのではないかと思います。

 今後AIが発展したら、自分の考えをよくよく学習したAIが。まるで自分が考えたようなアイデア、発言、動作の予測をしてきます。自分一人で「自分」が形成されず、AIとセットで自分と認識せざるを得なくなるかもしれません。自分の思っている自分と、他人が思う自分のギャップに悩まされている芸能人と逆の現象というんでしょうか。パーフェクトプルーが観たくなるな。今敏監督の作品なので、よろしければ。
 疎外を恐れるのは、今のように仕事は選べないし、簡単に引っ越すこともできなかった頃の話ではないです。今でもそうですが村八分にされたときに生きるか死ぬか、追い詰められた状態になる。人は平穏を求めるなら異分子を追い出すから、そうやって疎外を恐れたと簡単に想像できます。もう少し生きやすくなったとはいえ、疎外は追い出される仕組み。退屈の嫌いな人は、理解できそうな異分子は好きだけど、違いすぎる異分子は追い出すわけです。

 

 私も理路整然と考えをまとるられないし、矛盾する両方の主張を正しいということがあります。矛盾って他人からみれば釈然としないものですが、自分の中で正しく整理されているならば存在していいものですよね。人は変わらないことと同じくらい変わることを求めていって、その中で変化しない普遍を見つけていくのが仕事だと思っています。本書でも結論は書かれていますが、各々考えよという問いかけで終わっいてるのは退屈が消費されたからでしょうか。

 私は消費と浪費を、後悔するか否かで分けていました。本書で言う文化的な背景は知らなければ、正しく購入しても浪費になってしまうのは違うと思います。自分の望みにあったものを、自分の納得する形で手に入れることが私にとっての消費です。浪費は自分の望みを満たしていないものや価値を感じないものに、持ってると安心とか流行ってるで手にすることだと思っています。消費に関していえば物体そのものの価値を、自分の望みを満たして手にするで機能としては成立しますが。文化的な背景、職人さんの技術や原材料の価値、美術や歴史的な価値を加えたものには、何か新しい言葉が必要だと感じました。

 ちょっと惜しいな、と感じるのはこの後半で書いた2点です。「疎外」と「消費と浪費」に関しては倫理の枠から出てしまうんでしょうか。